地域医療と市民2009年10月10日 15:30

 健康な時は気にもとめないが、病気になると真剣に良いお医者さんを求めるものだ。確実に先端技術を駆使して手術してくれるお医者さんや、親切に話を聞いて病状を診断してくれるお医者さんを探し求めて行くものだ。傍らの看護師さんの一言が身に沁みるように感ぜられる時もある。

 そんな大事な医療が各地で崩壊しつつあるという話しを聞くようになった。要するに医師や医療関係者に対する待遇が悪かったり、労働過重で医師が逃げ出して医師不足になり、病院経営が立ち行かなくなるケースが少なくないと聞く。

 金融業やIT関連が莫大な利益を挙げる一方で、医療だけは社会主義経済と言って良いような統制経済下にある。診療費から手術、介護、ベット数から、薬まで価格が法律によって規定されているそうだ。ところが凡人は生命が危ないとなると、命はお金に代えられないとばかりに幾らでも払うからということになる。

 それが人情であるけれど、それを放置すれば不運にも手持ちのお金がないとか、貧しいとか言う人は病院にかかれなくなる。そんな事態にしてはならないので健康保険があり、それがどんな人でも平等に医療治療が受けられるようにしている。だから医療関係費が法律的に規定されることになっている。

 それに変更を加える、あるいは改善するなどということは大それたことには違いない。しかし大きな医療費の問題は国の政策による改善を待つことになるが、身近なところで医療を大切にすることも重要だし効果があるのではないだろうか。

 よく繁盛している大きな病院の傍には薬局やコンビニ、そして飲食店、花屋、本屋などが集まって繁華街をかたどっているのを見かける。名医がいれば遠方から患者も来るからホテルまで繁盛する。医療にはそれほどまでの力があるようだ。良い病院を持ってきたい、あるいは地元の病院をそうしたお医者さんが育つ病院にしたいと思わざるを得ない。

 良い病院は良い地元との関係にあると思う。良い地元がなければ医療は崩壊してしまうのだ。ではどうすればよいだろう。思いつきだがいくつかのアイディアを挙げてみたい。

 一つは、大きな病院には隣接して必ず地域の保育園及び託児所を建て、保育と託児を引き受けることだ。女性の医師や看護師が子供を産めない環境であってはならない。子供を産んで託児や保育しながら仕事ができる環境を作ること。その程度のことなら地方の裁量と予算でできるのではないだろうか。また幼児を連れたお母さんにとっても一時の託児が受けられれば受診しやすい、よい病院をつくることができる。

 もう一つは救急車をタクシーと同等の有料にすることだ。救急車はタクシーではない。緊急な処置の必要な病人を緊急に病院へ運ぶ車である。これが無料だからという理由で厚かましく軽い病気に使用されたのでは公益にならない。

 タクシーと同じメーターを使って病院でタクシー料金を徴収してそれを病院の収入にする。料金は距離に応じて計算されて、夜間は当然高くなる。そのタクシー料金は医療費として一部自己負担で還付されるから患者の大きな負担とはならない。

 救急車の収入は、病院の救急医療をする医療関係者等の厚生費等に使用する。どのように使用するかは病院の裁量にまかせるのが良い。しかし付け加えなければならないのは、医療関係者はその業務の重要性から時間外手当とか徹夜手当などという、通常のサラリーマンが得ている報酬がないという、びっくりするような実態を直視して考えなければならないことだろう。

 歳をとって体は弱りやがて病気がちになるのは人間の常であり、その時のわが道のために真剣に今、医療現場はどうあるべきかを考え、少しでも地域医療を良くすることを考える。そしてそれが街おこしにつながると思うのだがどうだろうか。

マスコミ『八ッ場ダム』に不信と苛立ち2009年10月11日 11:27

 マスコミ不信は大きい。以下はS・S氏のメールからの借用である。「巷では八ツ場ダム建設問題が大揺れに揺れている。マスコミは移転を余儀なくされた地元住民の『国との約束、造ってもらわなければ』というコメントばかりを流している。

 しかし、大切なのは『無駄な公共事業は中止する』ということではなかったのか。時代に翻弄された地元住民には十分な手当てをすべきだ。しかし、マスコミが取り上げるべきは、本当に必要な事業なのか否かではないか ?」

 テレビも新聞も、地元住民の苦難をたびたび流して、さらに困難に陥れたというようなコメントを流す。その上で地元住民との話し合いの前にダム建設中止を決定して押しつけたのは民主的ではない、というような論理を展開する。

 論理があまりに情緒的でありその場限りのたわごとになっている。ダム建設中止を宣言せずに地元民に会いに来たら、一層、地元民の迷いは多くなりさらに宙ぶらりんになるのではないか。前原国交相がはっきり「八ッ場ダム建設中止」と謳った事は正解だと信じるのは次のように思うからだ。

 国交相はマニフェストに載っているから八ッ場ダム建設中止と言って、それで地元民との交渉を打ち切ったのではない。八ッ場ダム建設中止は地元民に同調して都市市民が訴え続けてきたことだった。その根拠は現地へ行き、見て話して専門家の意見を聞いた結果であった。

 国交相は現地をみる前だったにせよ、多くの人が視察し論理的に不要なダムであることを認識したからマニフェストにあるようにダム中止を宣言した。それから現地に入り視察し地元民に会おうとした。

 その地元民が会う事を拒否させたのは八ッ場ダム建設に利権を持った人物や組織だった可能性が強い。民主主義の否定は会って話す事を拒絶させたそのことの方にこそある。

 多くの市民は八ッ場ダム建設に伴い犠牲になる地元民に同情をし、そして税金の無駄遣いであり治水利水に益のないダム建設に反対して1都5県で裁判まで起こしている。

 両方から綱引きされて真ん中の地元民の苦しみも分かるが、ここで情を持ちだしては正しい解決は見いだせないばかり、誤った判断を後世に残す事になる。

 情に頼って視聴者や読者をあおるのはいい加減にせい、と怒鳴りたくなるマスコミの報道であった。前原国交相が予め「八ッ場ダム建設は中止」と宣言して視察し、そして地元民と話し合う場に臨んだことは正しい。

 民主的な手続は、話し合うことであって腹の内を隠して話し合いに臨むことではない。納得するまでみんなと話し合うことであって、こじれた地域の代表者だけが地元民を寄せつけずに出てくるという旧い体質のことではない。